空外記念館 別時念仏会 講演 平成二十三年十月十六日(日)隆法寺本堂にて

童謡に聞くいのちの教え 〜仏道の降り道と昇り道〜


 
 
空外記念館理事長  江 角 弘 道

 甚大な被害をもたらした東日本大震災以来、日本人の生活観が大きく変わり、自分だけの幸せを求めがちな傾向か
ら、絆を大切にし、当たり前のささやかな幸せを大事にしたいと志向する人が増えているということです。新聞・テレビの報道によりますと、この大震災で理不尽に被災した日本に住む7歳の少女エレナさんがローマ法王に手紙を書きました。
 
安全だと思っていた自宅がものすごく揺れ、 同年代の子どもたちが大勢亡くなりました。なぜこんなに恐ろしい思いをしなくては ならないのでしょう。なぜ子どもたちは こんなに悲しまなければならないのですか

 異例なことに、ローマ法王から被災少女へ下記のような返事がきました。

私も同じように『なぜ』と自問しています。
いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。私たちは苦しんでいる全ての 日本の子どもたちと共にあり、祈ります。

 私には、法王のお言葉が宗教の本質を言っているように思えました。法王のお言葉は、「私も同じように『なぜ』と自問しています。いつの日かその理由が分かり、神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。」とあります。
 ローマ法王はもちろんキリスト教ですが、空外上人の師匠でありました山崎辨栄上人は、仏教とキリスト教の相違をも超えておられて共に一なるもの(一者)としての自覚がありました。そして、辨栄上人は、宗教の第1義とは、「我、如来と共に在りとの確乎たる信念である。」と語られています。ですから、ローマ法王の言葉の中の「神があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。」これは、「如来があなたを愛し、そばにいることを知るでしょう。」となるのですが、これは「如来様がいつもそばにおられて、そして愛していて下さる」と頂くこともできます。これを「常仏護念」と言います。
 「如来様は人間に幸福をさずけようと待ち構えておられます。だが、人間はなかなかこれを受け入れようとしないで、自分と自分の周囲に壁を築いて幸福を授けようとする如来の御手をさえぎって、そして暗い冷たい部屋の内で始終「損か得か」、「好きか嫌いか」などとブツブツ言っている。とんでもないことをしていますが、何という馬鹿な事だろう、人間を不幸にするものは如来でも運命でもない、実は人間自身なのです。幸福を得る道は直接如来に面接して、何の恐れもなく幸福を如来から受け入れる事です。このような人には苦痛も愉快であり、努力も慰安である。彼の胸は常に大いなる歓喜と希望に波打ち、わき出ずる愛の中に一切を抱擁して不自由と束縛から永久に解放されるのです。
 私たちは仏さまと同じ宝を持っているのに、みんな知らずにいる。なんとかしてそれを出してやりたいというのが、仏さまの立場です。
つまり、「一人ひとりの中に如来さまのいのちが宿っている。」のです。
禅宗も浄土宗も仏教と云う大きな枠では同じです。禅宗の白隠禅師は和賛で「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生の他に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求めるはかなさよ・・・・」と言われています。
 今日は、その宿っているいのちがどのように展開して行くかを話します。
河波上人は、「仏様のいのちの展開」というものを「光が現象してくるところである。」と話されています。生きた仏教といいましょうか生活の中の仏教と言いましょうか、それは、仏様のいのちの展開でもあり、別の言葉で言えば、「光が現象してくるところ」と云うことができます。
 童謡作詞家の金子みすずは、「はちと神様」という童謡詩があります。

はちと神さま(金子みすず作詞)
はちはお花のなかに,お花はお庭のなかに,
お庭は土塀のなかに,
土塀は町のなかに,町は日本のなかに,
日本は世界のなかに,世界は神さまのなかに。
そうして,そうして,
神さまは、小ちゃなはちのなかに。

 この詩の中の神様は如来様であるといえます。超越的な存在の如来様が、一人ひとりの中に宿っていてくださることを歌っています。
 このように、童謡は、幼子の歌であると共に、読みようによっては、大人へのメッセージを多く含んだ歌だと思っています。読む人の人生観、宗教観、宇宙観によって、広くかつ深く読める文学であると考えています。なぜそのように思うようになったかと言いますと、実は、平成11年12月26日に、20歳だった娘真理子が、無謀な飲酒運転の車に衝突され命を奪われました。もっと生きて活躍をしたかったろうに。結婚もし、子供も育てたかったろうに、二十歳という年齢ならば、もっともっと生きたかったろうに、遺された私達遺族は、本当に無念な思いをいたしました。
 
シャボン玉(野口雨情作詞)
1.シャボン玉飛んだ、屋根までとんだ
  屋根まで飛んで、こわれて消えた。
2.シャボン玉 消えた、飛ばずに 消えた
  生まれて すぐに、こわれて 消えた
  風 風 吹くな、シャボン玉とばそう

 そんな時、野口雨情作詞のシャボン玉の童謡を聞きました。特に2番を聞いたとき、涙が出ました。それは、シャボン玉が娘・真理子のいのちの象徴であるように思えたからです。いろいろなシャボン玉があります。歌の1番にあるように高く屋根まで飛んで行き壊れるものもあります。出来てすぐに壊れるものもあります。二十歳で、人生これからというその時期に理不尽に殺されるその無念さは、なんということでしょう。それにしても、この童謡の内容の深さは、「野口雨情さんが幼い娘を亡くされる」という悲しい体験を歌ったものだと調べてわかりました。
 歌詞にはシャボン玉で子どもが遊んでいる様子が描かれていますが、それには夭逝した子供への鎮魂の意があります。悲しい・無念なのは、私達だけではないのです。そう思うと少し悲しさが和らいできました。悲しい時に共に悲しんでくれる人がいる。そのことばがある。そうすれば悲しみは半減して行くのです。そのことばとしての童謡の詩には、いのちを教える大きな力があることが体験を通してわかりました。

七つの子(野口雨情 作詞)
からす なぜ啼くのからすは山に 
        可愛 七つの子があるからよ
可愛 可愛とからすは啼くの 
        可愛 可愛と啼くんだよ
山の 古巣へいって見て御覧 
        丸い眼をしたいい子だよ

 このタイトルの『七つ』という言葉が「7羽」を指すのか「7歳」を指すのかは明らかになっておらず、度々論争の種となっています。カラスは一度に7羽もの雛を育てることはなく、7年も生きたカラスはもはや「子」とは呼べないためです。「7歳説」への有力な手がかりとして、野口雨情(作詞者)記念館の館長である雨情の孫娘様は、「雨情の息子(館長の父親)がこの歌のモデルであり、その息子が7歳のころに作られた歌である。」と語られています。これは身内による主張であるため、説得力があるとする見方が存在します。また、7歳という年齢は野口雨情自身が母親と別れた年齢と合致することから、そこに関連性を見出す説もあります。
 この歌は、愛しい子供に対して社会に喜ばれる徳の高い人間に育って欲しいと願う親としての切なる願いが出ています。この親とは如来様であります。つまりこれは如来様の願いであるわけです。これは子育てに通ずる大切な視点ではないかと思います。両親は子に対して「常におまえのことを思っているよ。守っているよ」というメッセージを発信し続けねばならないと思うのです。発信していないと子供が変になってくると思います。もし問題を起こした子がいたら、なおさら親は子に対して、「常におまえのことを思っているよ。守っているよ」というメッセージを出す必要があり、それが子を立ち直らせるのだと思います。この童謡詩は、如来様の願いが私たち一人ひとりの中に展開してきているところを歌っているのです。実は、この童謡は、後で示します仏道の降り途といわれるところを表す歌に相当します。 また、野口雨情の弟子であった中村雨紅が作詞した「夕焼け小焼け」は、「浄土召還」を表しているように思えます。

夕焼小焼 (中村雨紅作詞)
夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る  
お手々繋いで 皆帰ろ  カラスと一緒に 帰りましょう
子供が帰った あとからは  丸い大きな お月様    
小鳥が夢を 見る頃は  空にはキラキラ 金の星

 この詩の中の「お手々繋いで 皆帰ろ  カラスと一緒に 帰りましょう」という言葉は、大人へのメッセージとして「浄土へ帰る」という意味が読み取れます。つまり、如来様が私たち一人ひとりの中に展開してきて、「さあ、浄土に帰ろう」というところを歌っているのです。これも、後で示します仏道の降り途といわれるところを表す歌に相当します。
 また、「ぞうさん」という童謡があります。

ぞうさん(まど・みちお 作詞)
ぞうさん ぞうさん お鼻がながいのね
そうよ 母さんも長いのよ
ぞうさん ぞうさん だあれが すきなのよ
あのね 母さんが すきなのよ

 これは、子供がお母さんに向かって「やさしいお母さん大好き」という思いで、「常にお母さんいっしょなんだ」とこころの底から安心をしているところを歌っているのです。お母さんは実は如来様です。子供は、いつも如来様といっしょなんだと非常に深い安心感を歌っています。子供が家に帰ったらまず「お母さんいる」と言います。これは実はお母さんが言わせている。如来様が言わせているんです。
 私たち一人一人の中に、如来様のいのちが宿っているということは、私たち衆生は、その仏さまを思い、それと共にありたいという願いが出てくるのです。これも、仏さまのいのちが展開している様子なのです。実は、これは、後述の仏道の昇り途といわれるところを表す歌に相当します。童謡の「故郷(ふるさと)」もまた、仏道の昇り途といわれるところを表す歌に相当します。

故郷(ふるさと) 高野辰之作詞
1.兎(うさぎ)追いし かの山、小鮒(こぶな)釣りし かの川、
  夢は今も めぐりて、忘れがたき 故郷(ふるさと)
2.如何(いか)に在(い)ます 父母、恙(つつが)なしや 友がき、
  雨に風に つけても、思い出(い)ずる 故郷
3.志(こころざし)を はたして、いつの日にか 帰らん、
  山は青き 故郷、水は清き 故郷

 この歌の1番は、過去のことを歌っています。2番は、現在のことを歌っています。そして3番は、将来のことを歌っています。「志(こころざし)を はたして、いつの日にか帰らん」というフレーズは、子供へのメッセージは、「故郷に錦を飾る」というような意味にとれますが、大人へのメッセージとしては、こ浄土往生のことを歌っているのです。
 空外上人には、「一二三四三二一」と書いた墨蹟があります(空外ギャラリーを参照のこと)。これを初めて拝見しましたときに、なんのことやらさっぱりわかりませんでしたが、河波上人の法話をお聞きしたり、空外上人の本を読んでみるとよくわかってきました。実は、これは「仏様のいのちの展開して行く過程を表したものなので、「一二三四、四三二一」と読みます。「一二三四」のところは、私たちの中にある仏さまのいのち・願いが展開していくところで、仏教修行の降り途といわれるところです。
 「四三二一」のところは、私たちが如来様と共にありたいというかたちで、私たちの心の中の如来さまが働き出すことで、阿弥陀さまのいのちが展開していくことになります。これは、仏道修行の昇り途といわれるところです。空外上人は、仏道修行の降り途昇り途を説明される時、「鑑賞のよすがに」の図4(9ページ)のように書いて説明されたものらしいです。そのことは、神戸の通照院の前の住職の龍飛水氏の書かれたものの中にありました。
 降り道とは、私たちの中にある仏さまのいのちが展開していくところです。浄土宗の宗歌:「月かげの いたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」(法然上人)は、降り道を示しています。この場合、「月のかげ」の「かげ」とは、いわゆる英語のshadow=影(かげ)の意味ではなく、本来はそのかげを生じしめる「ひかり」そのものを意味し、従って「月のかげ」とは、「月の光」の意味になります。つまり如来様の光明であります。この歌は、如来の光が衆生に及ぶ「降り道」を示します。童謡「七つの子」、「夕焼小焼」が相当すると考えます。
 昇り道とは、私たちの心の中の阿弥陀さまが働き出すことです。阿弥陀様のましますお浄土に往きたいとなります。辨栄聖者は、このことをお浄土に往くこと即ち浄土往生ととらえられました。
「月を見て 月に心のすむときは、月こそおのがすがたなるらめ」(弁栄聖者)
童謡「ぞうさん」、「故郷」が相当すると考えます。
 昇り道は降り道を前提にしないと成り立ちません。つまり念仏をするから如来の存在に気がついてくるわけですが、それは、まず如来様がいらっしゃるからできます。空外上人は昇り道の昇り方が一人ひとりちがうのを「各々性」いわれました。またそのことを田中木叉上人は、「白は白黄は黄のままに野の小菊、取り替えられぬ尊さを咲く」と歌われました。 「一二三四三二一」は、「一」から出て、そしてまた「一」に帰っています。これは、「ひかりより出でて、ひかりに帰るもの」・・・ひかりの体系(ひかりの現象学)ととらえることができるものでもあります。この体系を弁栄上人は、「光明主義」と呼ばれました。
 この昇りと降りの両方向を圧縮して表現したものが「選択本願念仏集」16章段の「念仏の行、水月を感じて、昇降を得たり」(念仏の行は、あたかも月が水面にうつったとき、水が昇らずして昇るがごとく月を感じ、月が降りらずして降りれるがごとく水に応ずる。水を凡心にたとえ、月を仏心にたとえたもので、念仏によって凡心と仏心と感応道交することをいう。) ここでは、月は如来様であり、水は私たちの凡心です。例えば満月の夜、水面に映る月がある。私たちが月を念う時、その念う私の心(=水)がいつの間にか天上の月と一体になっている。また天上の月がいつの間にか私の心(=水)の中に宿っているとも考えることができるのです。念仏三昧の実践において、如来と私の心の対立は超えられて、一如の世界が現前してくることの例えです。このことを感応道交、または入我々入といいます。辨栄上人は、「如来は私達の大御親に在し、私達は如来のいとし子である。至心不断に念仏精進する時、終に入我々入、天人合一の妙境にいたるのである。」と述べられています。
 山崎辨栄上人の作られた「光明礼拝儀」の表紙裏には、
○如来は唯ひとりの尊き大ミオヤなれども、私たちの為に三身に分かれて御慈しみをたれ給うています。
○法身は一切衆生をうみなす大本のミオヤにて天地万物はその惠と力とに依りて行われておる。
○報身は宇宙最高の処に在して、法身からうみなされたる人が信心念仏するに対して恩寵の光を以て之を摂化し永遠の生命と為して下さるミオヤにて
○応身は教えのミオヤ即ち釈迦牟尼仏である。この三身を合して三身一如の大ミオヤと申し上げます。

とあります。仏道の降り道のところが法身(産みの親)で、昇り道のところが報身(育ての親)と応身(教えの親)です。

 天地に存在する一切のものは、全部法性法身のはたらきであり、波の音も南無阿弥陀仏である。仏法というのは、お経や説法だけからではなく、天地一切から真実が聞ける耳をいただくものです。念仏の行により、天地一切のものから聞く耳さえ持てば、天地一切から真理が聞けるのでないか、こういうことが自在ということになります。辨栄上人には、次の歌があります。

いずこにか み法(のり)説かざる とこやある
心して聞け 松風の音


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