念仏のくらし
 「識を転じて智を得る」(頼耶縁起)
 ―業感縁起より大乗の縁起説へ−
山 本 空 外 


 次に、「四諦」ですから、もう二つあります。
 滅・道」というのです。苦というのは、だれも苦にしたいことはないけれども、苦になるのです。だから滅したいでしょう。それで「滅」というので、どうしたらいいかというと「道」です。「八正道」です。八つの正しい道を進んだらいいということになります。だから、「これがないとき、かれがない、これの滅から、かれが滅す」というのは、「四諦」の中では、滅・道の二つに当たるのです、それは「縁起説の滅法」です。それから十二因縁で考えれば「逆観」です。このように一番短いのが「四諦」、一番長いのが「十二因縁」です。「四諦」の苦・集は幾らでもふえます。どんなお金持ちでも、どんなに出世なさった方でも苦が多いのです。滅法とは、何もならない苦は苦にしない方がよいということです。どうしたらやめられるかというと、財をためたり、出世したりはできないのです。八つの正しい道を進まなければいけない。その「八世道」の一番初めが「正見」(しょうけん)といって、正しく見るのです。『般若心経』の般若というものもそのことにつながる智慈です。
 それで、縁起説の「増法」、十二因縁の「順観」を広く説いていくと、仏教をみな説くことになります。結局、仏教の説明は、「縁起」の説明の展開になるわけです。インド仏教が千年間発達したといってもみな縁起です。だから、「ナムアミダ仏」ができるころにこの縁起の思想は、「如来蔵縁起」の論へ進んでくるのです。縁起といっても、いろいろありまして、一番初めの縁起思想は、「業感縁起」といいます。「業」というのは、さきに申し上げたヴェーダの文明から仏教が受け継いだもので、仏教が考え出したのではありません。「宿業」(しゅくごう)とかいいます。宿るというのは、子供がお母さんのお腹にいるときに、お母さんの心に起こることが、やっぱり生まれる子供に影響しますから。それは宿業なんです。だから子どもを一人生んで育てるというのは大仕事です。絵をかいたり、焼き物を焼いたりすることも大変な仕事ですが、それどころではない、命を育てるんですから。その命が、またどういうような働きをするかわからない。いろいろの仕事の中でも第一の仕事だと思います。
 それから次に、「頼耶縁起」です。頼耶というなは、阿頼耶(alayaアラーヤ)というインド語です。「アラーヤ」というのは、「蔵している」、「蔵」(くら)の意味。また英訳するときにtolie(トウ・ライ)といって、「横たわる」というような訳もされます。私たちの心の奥底に横たわっているのです。自分は知らなくても、心の奥底に、何かを持って生まれついているわけです。それが、出てくると処置に困る。それで、お念仏をして、「アミダさま」の命の光に照らされると、処置に困らないようになって、それが伸びていくわけです。「阿頼耶識」の話をすると難しくなりますが、仏教は「無我」を説きます。すると、「我」というもながないなら、極楽に往生をするといっても、何が往生するのかという問題があるのです。アラーヤ識が往生するという人があります。またそうじゃないという人もある。
 

なぜしないかというと、阿頼耶識のことを書いた書物の『成唯識論』(じょうゆいしきろん)(十巻)が根拠になっています。その第十巻を読むと、「転識得智」(てんじきとくち)ということが出ている。「識を転じて智を得る」とあります。

 光明主義の思想は大体この系統です。「識」(しき)というのは「阿頼耶識」などです。我々の心の奥に横たわっていて、その上にちょっと働き出すのが「意識」です。さらに分かれてその意識が「見る」とか「聞く」とかいう感覚の働きにつながってくるのです。意識でも阿頼耶識でもみな「識」です。この識を転じて、アミダさまの「智慈」を得ていかねばいけない。だから往生するというのは、この智慈につながらねばできないわけです。インドの言葉で、阿頼耶識の「識」をvijnana(ヴィジュニャーナ)と書いてある、そのvi(ヴィ)は「分ける」という意味です。自分さえよければいいとか、人はどうでも構わぬとか、分けるのです。それでヘドロを流したりする。そうすると、人が困る。自分んもまた、補償しなければならないようになって困る。Jnana(ジュニャーナ)の上に煩悩vi(ヴィ)という帽子をつけている、この帽子だけが働くのが識です。本当は帽子だけじゃなしに、土台にアミダさまの「智慈」があるのです。
 幾らヘドロを流す人でも、その人が夜寝ていても心臓が動いているのは、アミダさまのおかげで動いているのです。空気が吸えるのも、アミダさまのおかげです。損得を考えるのが私どもの煩悩だが、煩悩を捨てるのではない、煩悩はあることはあるが、心の窓を閉めておらずに、開けさえすればいいのです。そうすると、「アミダさま」のおかげの智慈が照らしてきます。その智慈をjnana(ジュニャーナ) といっているのです。今まで、窓を閉めていたから、帽子をかぶっていたわけです。vi・ヴィ(分ける)だった。しかし窓を開ければ、vi・ヴィ(分ける)は働かないようになる。そして「アミダさま」のおかげが心の底まで照らしていきます。こうならねば往生はできないのです。窓を閉めていてできるはずはない。だから阿頼耶識では往生できるはずはないのです。
 

それから第三に、「真如縁起」があります。今のvi・ヴィの帽子が頭についている、また心の窓が閉まっていると、境ができます。その境がなくなってしまうことなんですが、真如というのは。これは後に申します「如来蔵縁起」に進んでいくのです。

 第四に、「法界縁起」です。これには四つの法界を立てていますが、その一番最後が「事事無礙法界」です。「事」というのは、一つ一つの事、いわばこの机上に生けてある高山植物の花です、私の体です。それらの間には障礙がない。本当に花の命を自分の命として感じるようになる。花の命の中に、大自然の命はみなつながっているわけで、私の命もつながっている、そういう「法界縁起」を説いているのです。

 『般若心経』の思想
   空の理念(めざすところ)
 『般若心経』の「心」は「心臓」を指す−
   東西文化交流の結実が大乗仏教

 そういうふうにして、「如来蔵縁起」というものが最後に説かれていきます。如来さまは蔵れている、どこに。煩悩の真下に。自分勝手を言うことは、如来さまに甘えていることになるわけです。如来さまに甘えなかったら言えないのです。勝手を言うからといって、空気を吸わさぬとは如来さまは言われないです。そのように如来さまのお慈悲の中で生きているわけです。如来さまを何と説明しても皆はわからない、が、本当は如来さまのおかげがなければ、手も動かない、頭も働かない、目も見えない、心臓も動かないというようなものです。この「如来蔵縁起」が説かれるころには、「ナムアミダ仏」ということになっているわけです。死ぬまで我々は、煩悩を精算できませんが、「ナムアミダ仏」で、いつでも如来さまの支えを、お護りを喜ぶ縁起になっているわけです。どんな煩悩も如来さまと離れないのです。そういう生活を、縁起思想として仏教は展開していくのです。
 だから、縁起といっても一通りじゃないのです。今まで述べた縁起の他にも「六大縁起」いって、真言宗が拠所とする縁起もあるわけです。「六大」というのは、「地・水・火・風・空・識」の六つが、大自然に通じて、それが我々が生きていく上の拠所に、支えになっているのだと、そこをさとっていくのです。そこで、これからの縁起を理論的にまとめていく『般若心経』の思想を次にお話ししたいと思います。
 
『いのちのみのり』山本空外講述 昭和五十一年(一九七六年)
財団法人光明修養会刊 抄録

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