―平成17年10月9日追恩別時念仏会講話―
命は誰のものか

河 波 定 昌

【講師紹介】
1930年(昭和5年)京都市で出生。
九州大学を卒業し
京都大学大学院博士過程で西谷啓治博士に師事。
現在空外記念館理事長。
光明修養会上首。
東洋大学名誉教授・東京光明園主・東西宗教交流学会会長・
米国学士院終身特別名誉会員(アカデミシャン)・文学博士
講演会と念仏会 平成17年10月9日 於 隆法寺本堂



 本日のテーマは「命は誰のものか」であります。そして殆どの人が、その点に関して「命とは自分のものだ」と思っています。そのことは余りにも白明のことで、それゆえにそのことについて改めて真剣に問うこともありません。実際、私たち自身そのように思っているし、社会全体も、そして肝心の教育や宗教の世界においても同様であります。したがって生命とは自分のものであるから、その自分の生命を自分勝手に生きればよい、ということになります。最近、援助交際という言葉も流行語になっていますが、本人たちもそうですが、またそれを糾す側もそれが間違いであるとして示す恨拠を明らかにすることもできず、結局なりゆきまかせで、人間としての守るべき道徳もますます崩壊してゆくばかりです。
 確かに自分を離れて自分の生命があるわけではないのでそのように考えてしまうのも、一面、無埋からぬところもないとはいえます。しかしながらまさにそこに致命的とも云える盲点があるのです。そしてそのことが人間を恨底から駄目にしているともいえます。
 その最も大きな原因は近代ヨーロッパが展開してきた自己中心主義、とりわけ戦後のアメリカ教育の中心ともなっている自分中心主義にあると云えます。この自己中心主義、ないし自分主義とは、すべてを自己から考え、自分にその価値判断の基準をおくという点にあります。
  しかしながら、ヨーロッパにおいてはかかる自己が中心として考えられる遥か以前から、実はキリスト教があって、永年にわたってそのキリスト教的信仰が、人間の一人ひとりのほんとうの自己を育ててきたのでありました。人権ということが云われますがその基になる人間の尊厳性も実は神への祈りの中から自然に形成されてきたものでありました。たとえばパウロは「ローマ人への手紙」(『新約聖書』)の中で、
   「権(威)にして神より出でざるはなし。」
と述べていますが、人間の権威(尊厳性)もまた神から与えられたもので、それを根底として人間一人ひとりの尊厳性が考えられてきたのでありました。
  また14世紀頃に活躍したドイツの最大の宗教思想家の一人であるマイスター・エックハル卜(1260頃〜1327)は、同様に人間の高貴性に関して論じ、その人聞の高貴性が神から由来していることを述べています。
  民主主義も現在、流行語となっていますが、この民主主義の「主」に、人間の高貴性が前提されていなければ、そもそも民主主義は成り立ちようがないでしょう。このように永年の歴史を通じて人間はみずからの尊厳性に目覚め、次第に自立していったのでありました。哲学で有名なドイツの哲学者、インマヌエル・カントは、哲学的な立場に立って人間の自律性を宣言した人でした。そのカントにも神への敬虔な思いが貫かれていたのでありますが、しかしながら近代も進行し、人間の立場が次第に強調せられてゆく過程で次第に神が背景へと退いてゆき、やがてその神は人間の精神の地平から消滅していったのであります。そしてやがて起こるフランス革命(1789年)におけるいわゆる「人権宣言」はまさにその象徴的な出来事でした。フランスに存在していたすべてのキリスト教の修道院も完全なまでに破壊され尽くしてしまいました。そしてそこに神を排除した近代的な自己の確立をみるにいたるのです。

 そして人間は自らがその背景に神を前提している限りにおいて、人間の行為は正しく作動するのでありますが、この神が消えてしまう時、人間はその自制力を失い、その行為は勝手気儘になり放逸になってゆくのです。そして人間は生命の(尊さ)の由来する根源(神)からみずからを遮断し、そして生命そのものの本質とその意義を見失ってゆくのであります。その結果、生命とは自分のもの−自分勝手にできるもの、といった軽薄な思想をもつようになるのであります。そしてそれは何よりも教育界において極めて顕著にみられるのです。今や教育とは単なる技術でしかなくなり、受験勉強の手段になり果て、真の生命の尊さに触れてゆくことは殆どありません。教育の最も根幹のところで肝心なものが欠けているとしか云いようがありません。山本空外博士と同様、プロティノスの研究に従事されていた日本でも最高の教育学者であられた稲富栄次郎博士は、世界中でも日本ほど莫大な教育予算を使い、また多くの点で行政上の配慮がなされているにもかかわらず、その教育内容は空虚であると述べられていますが、それはまさに適切な表現というべきでありましょう。およそ宗教的内容のない教育は、そして思想、文化等も同様に軽薄たらざるをえません。命そのものについても「命とは自分のもの」と考えることによって生命そのものへの深い洞察は失われ、空しいものとなっているのが現状であります。
  このようにして私たちが生きてきた近代とは、どこまでも自己中心主義的な性格のものでありましたが、今や時代は大きく変革し始め、近代から大きくいわゆる後近代−ポスト・モダーン−の時代へと移行しつつあります。ポストとは後という意味ですが、かかる言葉が語られること自体、はや近代ではなくなりつつある、という新しい意識が生まれつつあるといえます。そしてかかるポスト・モダニズムへの思惟はすでに先駆的に20世紀の時代において天才的な思想家たちによって始動していたのであります。その代表的な思想家として二人の哲学者を挙げます。その一人はカール・ヤスパース(1883〜1969)、そしてもう一人はマルティン・ハイデッガー (1889〜1976)であります。空外先生はヤスパースとはハイデルベルクで、そしてハイデッガーとはフライブルクというドイツ南部の街でお会いになり、これら二人の哲学者たちと対談されました。そのことを空外博士ご自身も語っておられます。そしてこれら二人の哲学者は共に近代の只中に生きながらすでに後近代の思想家だったということが云えます。
  まずヤスパースについて――私も実はヤスパース学会の理事をしておりますが、そんな関係もあってヤスパースの主要な著書は殆どドイツ語の原書で読んでおりますが――かれの哲学の中心を一言で云えば、「自由 Freiheit」であるということが云えます。その点だけを云えばカントやサルトルと何ら変わるところはありません。しかしながらヤスパースのすばらしさは、その自由を論じながらその自由を突き破っている、という点にあります。すなわち人聞は自由であるけれども、その自由そのものは人間の自由からは出て来ない。実際、自由であろうと意志して生まれてきた人は一人もいないでしょう。気がついてみれば自由な存在として生まれてきていたのであって、その人間の自由は人聞の自由以上のところから由来しているというわけです。人間が自由であることは、何か人間(自由)以上のもの、すなわち超越者から由来しているというのです。したがって人間の自由であること自体、かれは超越者から贈与されている存在Geschenktseinであると云います。このようにしてかれは単なる近代の特徴たる自己中心主義ないし人間中心主義を脱却していったのであります。
 またハイデッガーも同様であります。かれには有名な『ヒューマニズムについて』という本があります。ドイツ語では 》Ueber den humanismus《 ですが、ここで「ついて」に相当する前置詞 ueber には「超える」の意味もあり、従って》ueber den humanismus《には「ヒューマニズムを超えて」という内容をも意味しているのです。すなわちヒューマニズムを論じることは、ヒューマニズムを超えることであり、またヒューマニズムを超える、ということによってヒューマニズムが本当に論じられるということでしょう。ヒューマニズムはもちろん「人間中心主義」のことですから、近代哲学の中心たる人間(ないし自己)の立場をどこまでも脱却してゆくところに、かえって真の存在Seinが露わになってゆくということになります。それはどこかで「南無阿弥陀仏」の精神に連なってゆくことをも意味しています。
  なお、もう一人、現代を代表する哲学者としてジャック・デリダも挙げておきますが、かれの思想の中核概念たる「脱構築」deconstrucionも、私の考えも入りますが、「脱」は南無に、「構築」に「阿弥陀仏」を対応せしめることもでき、「脱」で近代主観主義を脱却し、阿弥陀仏で自己を根源から本来の人間性を構築してゆく、といった思惟も可能で、そのことを通じて、南無阿弥陀仏がそのまま後近代のいとなみとなっている点も考えることができるでしょう。
  以上は思想的な立場から近代から後近代の展開を考え、「命とは私のもの」とは決して云えない方向が開かれている点を考えたのであります。しかしながら更にはそれにもまして現代の自然科学(とりわけ宇宙物理学)の最先端の部分で命に対して新しい光が宛てられつつあるのです。
  すなわちこの宇宙が最初に創られるのは約137億年の昔にさかのぼり、やがてその宇宙生成のプロセスにおいて生命が誕生するにいたるのですが、その生命の成立する確率はフランスの宇宙物理学者の計算によると10の千乗分の1であるとの報告が出されている。(ちなみに10の12乗分の1で1億分の1にすぎない。)10分の1とか百分の1であれば生命の誕生は偶然とも云えますが、10の千乗分の1ともなれば、もはやそれは偶然とは考えられず、「宇宙には意志がある」(元NASA-アメリカ航空宇宙局高等研究員、桜井邦朋氏の表現)と云う他はないでありましょう。宇宙における生命の誕生はただただ奇蹟中の奇蹟という他はありません。そしてその宇宙意志は弁栄聖者によれば私たちの細胞の一々に、そして更には遺伝子の先端にまではたらいているというのです。そして弁栄聖者は驚くべきことにかかる私たちの生命活動の先端(細胞)にはたらく宇宙意志を「選択本願」とさえよんでおられるのであります(『人生の帰趨』参照)。そこにはマクロマスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)との不思議極まる呼応関係が考えられるでありましょう。そしてこのような宇宙のいとなみの一環として私たち一人ひとりの生命のいとなみが考えられるのであります。それゆえ私のいのちの上に宇宙意志がはたらいているのであって決して「命は私のもの」あるいは「私だけのもの」等とはとうてい云えないのであります。むしろ私の生命のいとなみと一つになってそこで宇宙のいとなみがいとなまれているというべきでありましょう。そのようなことを考えるとヤスパースがいみじくも人間存在を「贈与された存在」Geschenktseinと称した内容はそのまま現代宇宙物理学の成果と不可分に関わってくることが考えられます。

  また私たちの寿命は50年、80年の命であるとしても、それは137億の宇宙の歴史を背景に成立してきたものであり、そのことを考えると私たちの命はただただ勿体ないの極みで、自分勝手に計らうべきものでは決してありません。考えてみれば宇宙の生成cosmogonyは人間の生成anthropogonyと一つになって宇宙生成がいとなまれていたともいえましょう。そしてその人間生成も人間のみでとどまるものでなく、そこにはより高次のいのちのいとなみも考えられてきます。仏、菩薩等の存在は高次の生命ともいうべく、それに向かっての更なる宇宙のいとなみも考えられるべきでありましょう。そこには私たちにおける神性の生成(霊性の展開)、いわゆるtheogonyも考えられるのであります。
  弁栄聖者の高弟、田中木叉師には、
    青い稲葉はその中に
    白いお米の実るため
    死ぬる身体はその中に
    死なぬ生命の育つため
の歌が残されていますが、ここで「死なぬ生命」とは、より高次の生命のことに他なりません。そのより高次の生命の実現の為、この肉体の生命の存在の測り知れない尊い意義もあると云えるのです。
  また私たちの生命が父母を縁として誕生してくるのでありますが、その生まれてくる可能性は実に70兆分の1であると計算されています。そこにも宇宙の選択の意志(本願)がはたらいているのでありますが、私たち一人ひとりの生命が70兆分の1の可能性で生まれてくるその奇跡的とも云える存在にただただ拝まざるをえない、とさえいえましょう。私たちの生命はかかる背景を以って成立してきでいるのであります。
 それはまた私たちの一日一日の生活そのものにも関わっているのであり、私たちの一日のいのちに175億年の銀河系宇宙の時間が凝縮してもいるのです。同じ木叉上人の歌に、
   無量寿を含む一日又となき
   今日の一日を尊とく生きん
もあります。
 「いのちは決して私のもの」ではなく、私のいのちは阿弥陀様(大宇宙)のいのちであり、阿弥陀様のいのちが私のいのちとなっているのであります。
 なお、ちなみに無量寿とはサンスクリットでアミターユス(アミタは無量、アーユスは寿命)で永遠の生命のことに他なりません。そこには一人ひとりにかけがえのない命の尊さがあるのであります。そこのところを空外博士は「各々性」と哲学的に表現されたのでありますが、また田中本叉上人は、
   白は白 黄は黄のままに野の小菊
     とりかえられぬ尊とさを咲く
と詠じられてもおります。

(平成17年10月9日追恩別時念仏会講話要録)
 
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